【アウトドア】

休みの日は家で寝ているのが一番!という人は少なくないだろう。誰でも忙しい日々の中での休息はゆっくりと過ごして、次の仕事のために体力回復をして働くサイクルでみんな動いている。

確かに寝る行為は、人間の三大本能の一つであり、最も忠実に従いやすい欲求だ。寝ることで回復するのは当然だ、誰しも寝ることをしなければ回復せずに、いつかは限界が来て倒れてしまう。若いうちは寝るだけ寝ておけとよく言われているが、若いからといって睡眠を疎かにしていいわけではない。むしろ適度に寝なければ何も頭に入らないし、学生としての身分上勉強して知識をためなければ、脳も働かないし、遊ぶことに力を費やしては本末転倒である。

というように睡眠が大事だということは百も承知の上として、では寝ておけばいいのかというわけではない。寝続けるということをしていたら動くのが億劫になってしまう。これが人間の性だ。

上記でも書いたが、何事も適度という加減が必要だ、運動にしても睡眠にしても。

だが日々の激務という喧騒の中で、休みの日に体を動かすのは面倒くさいといって、動かないと筋肉が衰えていってしまう。筋肉が衰えていくと、体力も減っていき、日々消費する体力の基礎がさらに減少してしまうだろう。

だが運動といっても、本格的な持久走をして、汗ダクダクになって、帰った後のお風呂とビールがおいしい!なんていうことを楽しめる、かも知れないが中々いないだろう。過度な運動は帰って疲れを倍増させてしまうものだ。

少し近所の周りを1時間歩く、これだけでも気分転換としては最適だろう。風に当たることで煮詰まっていた気持ちもリセットされて、落ち着きを取り戻すことも出来るとなれば、簡単だろう。

これはあくまで筆者が思うことなので、全ての人がこれに該当するということはないので、予め書いておく。

では主にどんな運動がいいのか、となればやはり『アウトドア』という分類に属するものだろう。

『アウトドア』とは、屋外で行うスポーツレジャーの総称で、語源は『outdoor』、あるいは『Outdoor activity』と英語圏で呼んでいる一方で、日本では『アクティヴィティ』を省略して、『アウトドア』と呼んでいることがほとんどである。

日本語で『野外活動』とも言われており、言葉の中には『野外体験活動』・『野外教育活動』・『野外学習活動』・『自然体験活動』などの、教育目的の活動ニュアンスが含まれているなどの性質を持つ。このため、本来はアウトドア・アクティヴィティと野外活動とは同義語であるにもかかわらず、日本では別のものとイメージされることが多い。

アウトドア・アクティヴィティには、『アウトドアスポーツ』も『アウトドアライフ』なども含まれている。

前述に書いた『アウトドアライフ』の主なレジャーとして、『キャンピング』・『トレッキング』・『登山』・『トレッキング』・『トレイルラン』・『ケイビング』・『カヤッキング』・『チュービング』・『つり』・『海水浴』・『ピクニック』・『山菜取り』といった、陸上で行うものだけを総称しているわけではない。いずれも自然を楽しむというスタンスから、野鳥観察・植物観察などといった自然観察や、森林浴などが含まれる場合も多く、さらに天体観望も含まれることもある。定義からすると家庭菜園や農林漁業体験なども含まれる。

以上はスポーツという形での『アウトドア』ではあるが、マーケティングの『アウトドア』は山間部や海上・海岸などの都市生活者にとっては普段の生活からかけ離れた場所で行うスポーツやレジャーを一まとめに指しており、一種の商品価値差別化を図り、都市生活者の購買意欲を増進させることを目的として用いられている。

小難しいことを書いたが、ただ闇雲に運動すればいいということではなく、快適に運動することが最も重要だろうといいたいのだ。

自然と中々触れ合うことの少ない都会でも、少し離れた自然公園で歩いたり涼んだりするだけでも違ってくる、もっと乱暴に言えば山や川と言った自然が作り出した天然物に触れ合うことで、日々に疲れきった心をリフレッシュさせることも可能だ。

人間と自然は古い時代から密接に関係している存在であり、また人間は自然なくして生きていけるほど強くない。

誰しも子供の頃は山や川、海などに行って無邪気に、世間の荒波などという嵐を知らずに、遊ぶことだけを考えていた時期はあった。筆者も子供の頃は親に連れられて、山や川に行ったものだ。

しかし最近の子供達はそういう体験をしていないのも現状だ、むしろそんな子供を持つ親が経験していないというのもよくある話だろう。都会の中だからこそ自然を知る必要があるのに、知ろうとしない。

便利なものに溢れている世の中だからこそ、文明の利器から離れて、自分の足で、自分の手で土を握って、木の幹を触って、川の冷たさを知る、どれも貴重な体験だ。筆者が中学生の頃に修学旅行でいった屋久島での体験は今でも忘れられない。周りがぶつくさと何もないことに文句を言っている中で、一人楽しく過ごしていたのを覚えている。

特に驚いたのが、山の中で飲んだ川の水だ。都会では決して味わうことができない自然の水を喉に通したときは衝撃的だった。甘いのだ、砂糖のような糖分ではなく、山の恵みが生み出した甘さだった。

びっくりしながらガブガブ飲んで、持っていたペットボトルに入れては持って帰るほど、私個人は屋久島を気に入った。

小さい頃から親が貴重な体験をさせてくれたことが大きいのだろう、今でも自然公園にいって森林浴をしたり、何もせずにじっとしていたりするのが非常に好きだ。

頻繁に行くほどではないが、煮詰まったり、もやもやしたりしたら必ず出かけて気持ちをリセットしにいく。

ここではそんなアウトドアが日々の生活できっとプラスになるということを、筆者の言葉足らずの文章で伝えていきたいと思っている。

よろしければ最後までお付き合いください。

【野外教育】

都会で育つ子供達は運動する機会といえば、体育という授業で体を動かしているのがほとんどだろう。もしかしたらサッカークラブや野球クラブ等の外部スポーツクラブに所属したりしているかもしれないが、家庭用ゲーム機が普及している世の中では家に引きこもっている子供達の方が圧倒的に多いかもしれない。

そんな子供達は自然に接することがほとんどないのは、元々住んでいるところに自然が少ないということもあるだろう。親が自然体験といった形で子供をつれて出かけるということをしていないかもしれない。筆者は子供の頃はそういった山や川が中心だった、なぜかといえば、父親がレジャー施設関連を非常に嫌っているというのが大きいところだろう。関係ないが、ディズニーランドに初めて行ったのは、高校生の時だ。行きたいといえば、即断で却下されるほど昔気質の強い父なのだ。

筆者の個人的史上はおいておいて、自然に触れ合うことの少ない子供達のために、そういった機会を増やすことを念頭においた取り組みも行われている。それが表題でも書いた【野外教育】というものだ。

野外教育とは、野外活動や自然体験活動を通して行う教育活動の一つであり、現在ではNPO法人や民間の野外教育団体などが積極的に開催を行っている。それ以外にも『少年自然の家』や『青年の家』といわれる国や地方自治体の青少年教育施設等が、全国で行われている。こうした活動の大きなテーマとして『生きる力』を育むことが大きなテーマになっている。

生きる力を育む、それは成長していく中で最も重要になってくる力だ。子供の頃は必然的に両親がいて、自分を守ってくれる人がそばにいる。子供の頃はそんな気持ちを持つことはないだろう、また一生そのことに気づかない人もいるかもしれない。

もしそんな守ってくれる人がある日突然、いなくなってしまうことがあるならば、その人は自分ひとりで生きていかなくてはならない。誰かがきっと守ってくれる、そんなことはないのだ。

社会に出たら誰もが一人であり、自分の足で自分の力で生き抜いていくしかないのだ。自然界では親が子供に生き抜く方法を教えるように、幼い頃からすべを一心に叩き込んでいく。そしてすべを教わった子供は親の元から巣立っていくのだ、これが人間社会でも同じことがいえる。

赤の他人を助けてくれるほど、人は優しくない。自分が苦しんでいるのに、他人を助けていられるほど、人に余裕などない。

だからこそ、人は行きぬくための力を養わなければならない、そして覚えなければならない、それが生きるという活力に繋がるのだ。

自然という、何もない世界で人は火を起こす術を学ばなければならない、水を汲み取るための道具を作らなければならない、寝床となる場所を探さなければならない、今日明日食べる食料を何とかしなければならない、普段当たり前のようにしていることをまずは確保できるようにしなければ、人は自然の中では生きていけないのだ。

社会は自然と同じだ、生きる術を得なれば生きていけない、野外教育はいずれ成長した自分に大きな意味を与えてくれる。

さて、野外教育というものは初めに1940年ごろのアメリカで使われ始め、野外教育の父と呼ばれている『L・B・シャープ』が生み出した『Outdoor Education』が語源といわれている。

日本では1960年代ごろから、アメリカの野外教育が本や雑誌で紹介される。1996年に現在の文部科学省に提出された『青少年の野外教育の充実について』をきっかけとして、野外教育という言葉が頻繁に使われるようになった。

その後、文部科学省は、1999年度から三度にわたり、専門的能力を持った指導者を育成するため、『野外教育担当者セミナー』を実施した。

それ以外でも学校で行われている『集団宿泊学習』のほとんどは、講義では野外教育と同じ意味であり、『総合的な学習の時間』で野外教育が行われたり、最近ではプロジェクトアドベンチャーを体育の授業に取り入れられることもあるほど、日本でも徐々にではあるが普及していっている。

只でさえ人と関わることの少なくなっている中で、集団で行動するのが苦手という子が多いのも事実だ。筆者も集団行動は苦手だ、だが世の中人一人の力で生きていけるほど甘くもない。只こればかりは正しいこととは言えないだろう。それも全て本人の個性から生じているのが一番強いところだ。人と合わせて行動するのが本当に苦手と感じるからと言って、直さなければならないということはまずない。個性と割り切って考えなくてはいけないものの、やはり度が過ぎた単独行動をしては身に余るものがある。極端に合わせる必要もないが、絶対に合わせなければならないということでもない、どんな状況でも自分の立ち位置を使い分ける方法を覚えるという意味での勉強と考えれば、まとまりがいいだろうか。

注意しておくが、筆者は何も単独行動を推奨して、集団行動は意味が無いということを言いたいわけではない。何ごともあわせるということが必要だと、いいたいので留意しておく。

一連の体験はまた、生きる力を育むだが、何も野宿生活が出来るまで逞しく成長する活動、ということではない。

体験を通じて学んで欲しい能力とは『自分で考える』という点が一番大事なところだろう。

最近の子供たち、いや中高生・はたまた大学生や、社会人の中にも悲しいことながらいるかも知れない、自分で考えないで全て他人任せにしようとする人がいる。

決定権がなければ仕方ないが、自分に繋がること、自分の中の問題に対しても、優柔不断に決めることができない人は多くいるだろう。

そういう人に限って、自分のこととなっても重要な決断が出来ないでいる。これも容易・安易に結論を出せないような問題なら別だが、他人に合わせた生き方をしていては、いずれ限界が出てくる。

どう感じて、どう気づいて、どうしてこうなるのか、この後どうするべきか、などが出来ない人も多いだろう。知識として何もなければ行動できないのは当然として、技術もあり、情報も獲得している状況で、何もしないというのとでは話が違う。

何事も自分で決定しなければならなくなる、辛い道も自分で決断すれば苦ではない、苦と感じるならそれは自分が選んだことではないからだ。その場合、今後のことを考えなければならない、そうなればやはり自分で考えなくてはならない。

この学習ではそうして考える力を養うことを重点において、成長を図っていくとしても目立ってくる点だ。

【環境教育】

先に述べた野外教育は人間が生きていく中で、大切なことを学ぶという点で今でも国や地方自治体が精力的に活動を推進しているというのも多いだろう。

だがこうした活動をする際は自然という存在がある、ということが大前提だということだ。

自然がこのままちゃんと存続していると考えている人など、誰もいないだろう。年々人が生活するために森林を伐採しているのは周知の事実、逆に自然の中を開拓しなければ人が生活できるだけの環境を形成できないというのも、また事実に他ならない。

自然界が過度になくなれば人は生きていけない、しかし自然を開拓しなければ人が生きるための術を手に入れられない、二律背反な関係だ。

簡単に書いたが、人間は自然なくして生きていくことは不可能ということ、人間と自然の関係性は常に揺らぎなく、また対等と考えがちだが、人は自然があるからこそ生かされていることに気づかなければならない。

自然体験をすることで生きる力を学ぶ以外に、『自然というのがどれだ貴重なものか』、と知らなくてはならないために、そうしたことを学ぶための『環境教育』という活動もある。

環境や環境問題に対する興味・関心を高めていき、必要な知識を情報としてため、その情報を扱うための技術を手に入れ、技術を学ぶための姿勢を示す態度を入手・そして獲得するために行われいている教育活動のことである。

人間の全体に関わる問題として、学校以外でも様々な活動が行われている。

日本では1960年代に生じた、深刻な郊外や自然破壊の問題に対する社会運動が発展、その解決方法として認められるようになったのが環境教育の始まりである。

環境学・環境問題に対する市民の知識・関心の低さが指摘され、それを教育とする方法として環境教育の概念が形成された。

1990年には日本環境教育学会が創設され、環境教育の理論的体系付けが一つの目標とされており、環境教育学の創始者である『藤岡貞彦』は、その目標は環境権の確率にあると述べられている。

行政の面において、1993年の環境基本法の制定と2003年の『環境の保全のための意欲の増進及び環境教育に関する法律』の規定により、環境教育の推進のための施策が行われている。

現在では自然保護に限らず、持続可能性についての議論などの広い意味を含んでいる

難しい言葉を羅列させたが、要は自然を大事にしなければなりません、ということだ。

活動を通じて自然の重要さ、尊さを学んでもらおうという考えもあるが、それがどこまで影響するかどうかは言葉をつなぐのは少し難しい。

自分ひとりが気にしていても、周りがしていなければ意味がない、と行き着いてしまう人もいるかもしれないが、だからと言ってそれで自分が自然破壊をしてもいいということにはならない。

考え方の相違があると念頭においても、自分の意見ではなく周りがこうしているから自分もこうしていい、と思う人は少なくない。

自分さえよければそれでいい、この考え方を否定するわけではないが、加減というものがある。周りがやっていないからこそ、自分だけはやらなければならないと思うように行けば人間的に成長しているといえるはずだ。

【野宿】

上記に書いた活動を行う場合、どうしても一日だけ、と行かなくなるときがある。

こういった集団行動を伴う活動をしていくうえで、必ず泊りがけも起こる場合は起こるものだ。

ホテルや旅館、コテージなどを利用することが一般的だが、中には野外で寝ることもある。平たく言えば野宿だ。

現代では建物の中で、暖かい布団とベッドに包まれて眠ることが当然のように出来る。これが4,5世紀前になれば道端で寝ている人がいてもおかしくない時代だったのだ。もっと言えば人類としての歴史がまだ始まった縄文時代となれば、硬い地面の上で布団も何もないところで至極当然のような環境だってあったはずだ。そんな大昔のことを考えれば、今の私たちがなんとも贅沢な生活をしているのかと考えれられるだろう。

現代で野外活動など、登山や旅好きの人からすれば実際に野宿している人も中にはいるだろう。活動の中でする野宿となれば、いつもと違う状況で睡眠を取るので、興奮することもあるだろう。

しかしそんな生活がずっと続くことになると考えたら、筆者としては精神力が持たないだろうと思う。

やむを得ずしている人のことを考えれば、何とも無責任な発言であるかもしれないが、耐えられる耐えられないという話では、やはり耐えられないと答える人がほとんどだろう。

さて、それとこれとはと違って、ここでは活動の中での野宿を行う場合、そして趣味として行うときのことをひっくるめての野宿について考えてみる。

趣味の一環として野宿を行う場合、テントや寝袋・灯りといった宿泊用具を用いる。食事についてはがすコンロ・食器を初めとする炊事用具一式をそろえている場合も多い。野外活動の中では事前にこうした道具は最低限用意されていることがほとんどだ。

また夏場は蚊による虫刺されを避けるために防虫スプレーを用意する、これは自費で用意するのがほとんどだ。中にはダンボールを持ち歩いて寝るときに下敷きにして用いたり、複数個を連結して中でなるといった創意工夫を加えたものもあるが、これはホームレスの人々がよく作っている。

野宿をする場所としても、人工的に用意されたキャンプ場ではなく、山中などで行う傾向も多いが、都市公園においての野宿は行政財産であるために、しばしば禁止事項として中止させられることがある。

野宿というものがどんなものかは言われれば誰でも想像できるものだ、しかし自分がいざやるとなれば道具や食料・寝袋と言った寝具も一式を用意しなければならない。

野外で寝ることが、現代の若者にとっては実行しようとしてもしたがる人はほとんどいないのが本音なところだろう。